昭和51年7月4日 壮年大会
教祖様の御教えの中に信心はみやすいものじゃが氏子から難しくする。とおうせられておりますけれども、みやすいものとは私自身も思いません。けれども、だんだん信心辛抱させて頂いておりますと、その難しい信心が大変楽しい、そして有難いものになってまいります。だからそれまでが信心辛抱です。自動車の運転をなさる、出来なさる方が自動車の運転ちゃ難しいでしょうねと。いいやもう( )ごとしてやりますと言う。
えらい難しいという人は一人もなかと思うです。もう自分の母体と同じように車を動かしていかれますのですから。けれども私どものように運転免許も持たなければ運転もしたことのないようなものに自動車を動かせ、運転せろと言うてもやはり難しいです。ね。ですから運転免許取るところまでは、ね、この氏子はと信心にならせていただくところまでが( )は難しいと言えば難しいのです。けど難しいと言うてもおかげがともないますからね金光様の御信心は。ね。
これは絶対のおかげがともないますから信心は難しいけれどもおかげが楽しい。おかげが有難い。まあそういうところから信心は入っていくのでございます。それぞれの難儀、悩み。そこからお導きいただいてお参りしてまいります。そしておかげを頂いて、ああなるほど神様じゃなあ、神様あだたかなことだなという事になってまいります。ね。そして、それがまた和らぎましたりいたしましたりいたしますけれども、又何かの時に又出て見えられる。
例えば今日、これほどたくさんな方達がお集まりになりましたけれども、ほんとはまだ300名ちかくの方達に案内が出されたそうでございます。けれどもあれを今日私見てみてあの人も来とらん、あの人も来とらん、あの人は当然来なきゃいけないという人達が来ていなくって思いもかけない方達がこんなにたくさん集まってらっしゃる。ほんとにこの縁というものはどうにもしようもない。ね。
先ほど奥さんがあの、お礼に出てきたんですけれども、日田の方でした。今日のこの会合にやらしていただくために会費もちゃんと納めてあったそうです。ところが昨日の夕方、電話が昼奥さんが参って来まして、実はあの、子供がなんか野球の試合に出らしてもらって、それが( )の方であるので親として子供が選手に出とるから見に行きたいわけです。もちろん学校の先生からも親も一緒に行ってくれないかと相談があったから、どうしようかとこう言う。
だから、野球の方は神様にお願いをしてそして、あなたこちらに出てくるように、と言うふうに私申しておりましたから奥さんそのつもりで帰った。ところがご主人はやっぱり行きたい。そやからまたその電話かけてきて風呂入っとりましたが、末永先生が○○さんからこんなで電話かかっとりますよ。んなら信心の稽古と思うてから野球のほうへ行きなさい。と私申しました。先ほどお礼に出てまいりましてからですね、もうほんとにうちの主人が、もう信心がわかりませんからと言うて(笑)。
もうこちらに来たら気すましとる。そしてあちらの方へ野球に行きましたけれども、今日はこのお湿りで野球はお流れになった。もうほんとに( )とられんやったというわけです。(笑)そりゃあもうあの良しにつけ悪しにつけ、やはりそういう体験がはっきり生まれてくる。だからこの次にはやはり神様を中心にしていくということになってくるだろうと思います。
これは私が30ねん前に、たいへん難儀な問題をかかえて御本部へご参拝のおかげをいただきました。当時三代金光様、もうそれこそ私共の地上の太陽としてあがめさして頂いておるお方のお取次を頂くのでございます。そしたら金光様から初めてお言葉を頂いた。その時に、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになるとおうせられますからというお言葉でした。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになるとおうせられますから。以来、私はもうどんなことがあっても神様を中心に申し上げる生き方に心を決めました。
言うならば人間本意ではなくて神様を本意ということになってまいりましたら、ね、ほんとに神様が私任せ、いうならば大坪総一郎任せにお働きくださる事実を今日まで頂き続けてきております。素晴らしい事です。信心はだから私が中心ではなくて神様を中心にする。氏子が神様任せなら私が神様任せになった時にはもうすでに神様を中心に申し上げたことでございます。ここでは皆さんが親先生任せになってせなければと申します。という事はそのまま親先生任せという事は神様任せ。自分というものをむなしゅうした姿でございます。
ですから神様が氏子任せになってくださるおかげになるのです。先ほど信徒会長がお話しておられました綾部さんの例でもそうでございます。ね。信心のいうならば程度程度でいうならばお取次をさせて頂くのでございますけれども、今度この会合に出て祝辞を述べるようにというふうに綾部さんに頼んだということでございました。それでまあそれはよかろう。それで親先生にお伺いして親先生が出てこいとおっしゃるなら出てこいと。
それで先ほど( )が申しましたようないきさつになっておる。ね。いうならば綾部さんがいかに今日まで親先生任せになってきておられるかということであります。どんな問題でもあっても。それはもうほんとに肝をひやすようなこともありましたけれども親先生任せ一本で来た。だから神様がいつも綾部さんへ中心にお働きくださってある事実があるのです。なら今度娘のところへお産のお手伝いにやらしていただいておることもそうです。親先生が帰ってこいと言われるから帰る。
私先ほど綾部さんから聞かせて頂いたんですけれども、おかげを頂きましてからこちらへ帰ってくる。そこへ丁度六十歳余りの方でとてもいい方が娘の世話をして下さる方が現れた。それでもう私はもうこれは帰らして頂いたらまあ夏期信行があっておることでもございますから、もうあちらはその面倒を見て下さるという方にお願いをして来た。というおかげが必ず実証されておるんです。ただいかにね、親先生無理な人ばわざわざいっとるとば呼んで。
けれどそこには綾部さん自身がおかげを頂かれる問題があるし、又同時におかげを受ける事実がねあるわけです。私はその、親先生任せとか、神様任せということがです、いかに素晴らしい事かと。そしていかに楽なことかと。だからこのへんのところがひとつ体得ができますと信心はいうならばみやすいものであり、または楽しいものであります。親先生任せになる。
もうどんな場合、どんなもう切ない問題であろうがです、どういう目の前が真っ暗になる問題でもあろうがです、親先生にお願いをした、お取次を頂いた、親先生が右とおっしゃたから右と思えば、そうさして頂けばおかげが頂けると思うだけでも心が安らいでまいります。ね。私は神様任せということはそういう事だと思んです。だから楽でしょうが。自分で心配せんでいい。
だから自分で右にしよう、左にしようというのは我情であります。我情我欲を離れて真の大道を開きぬ、我が身は神徳の中に生かされておる。自分の思いと言うものを抜きにして、ね、神様の思いを中心に申し上げる生き方が我情のない生き方です。そこの向こうにはなんと神様のお徳の中に生かされてある私共であるなあという次のおかげの世界が開けてまいります。ね。
だから、その親先生を信じるか信じないか。そこで私が初めて参って来た方達は( )方達は私をとにかくあなたのために私は解剖台に上がって差し上げるから私の信心を解剖してみてください。そして、親先生のどこからあれが出てくるかという事を検討して見てください。ね。あなた方のひとつ研究材料になろうというふうに私がいつも申しますけれども。
私自身が神様のおかげを頂いてそれをいうならば実証として、確信を持って皆さんにお伝えできるということが私合楽の信心だと思うのです。先ほど私共の孫であります、同時にまあ無事に成長すればここの三代を継ぐ、二つになります。私はこれに、その赤い親先生の花を付けとりましたらちょっとそれを欲しいっち言うんです。そやから私付けてやりましたら親先生( )したら横におった人が(笑)三代様、未来の親先生だとこう言うんです。
私共のあの、今4番目の息子でお道の教師にお取りたて頂いております一番下の( )息子が小学校の時に作文に将来なんになるかということを作文にしたんです。そしたら学校の先生があなたの息子はえらいなことを言いますわい。僕は親先生になるっち書いとる。(笑)親先生という事がそんなに有難いをいう事を目の当たりに見たり聞いたりしてくるうちに、自分もやはり親先生になろうと目指すところにです、素晴らしいものがございます。
皆さんの信心がです、とにかく親父の言うとうり、お母さんの言うとおうりのことをしておれば、ね、必ず人間が幸せになれれるという確信を持たせるために私自身が、まず幸せそのもののおかげを頂かなければなりません。ね。私自身が幸せになる。私自身がまず助かることであります。今日は、一時の夏期信行に皆さんも参加されました。そして私が、ちょうどご祈念が始まる2・30分の間に神様から頂いたことを、メモしましたものを皆さんに読み上げて聞いて頂きました。
あれは30分間の間にその御理解のですから、もういつもいつも私はあのそれこそ神様に感心するんですけれどもね。もう私が30年間こうやってお話をしてきとりますけれども、同じ御理解で、同じ話であったことがございません。私は今日の皆さんに聞いて頂いたお話も初めて頂いたお話でございます。だから私自身も大変感動をもって頂きました。一番最後のです、所にございました、悪が抜け、我が抜けていくその喜び楽しい。
信心させて頂いて自分の悪が抜けていく。自分の悪が抜けていく。それが自分にはっきり分かるんです。だからそれが楽しいんです。そしてこれが抜けたらね、またどういうおかげが受けれるだろうかという夢のような素晴らしいことが起こってくるんです。ですからね、それはどういうときに抜けるかというとです、私共が言う難儀、困ったといった問題からです、その問題を、ね、有難く頂く。
先日、20日の日が父の日でした。皆さんからいろいろ沢山プレゼントがありました。その中に額を頂きました。その額には、あの、要素と書いてありました。丁度日常のことでございますから特別( )の方達がここで一緒にご祈念を頂きました。そしてご祈念に出ましたらその頂いた額を頂くんです。要素。言うならば、養う元。自分の心を養う元。その心を養うという事はどういう事であろうか。
また、養う元には何が一番素晴らしい要素になるだろうかと私が思わせていただきましたらその額を書いた人の画像が出ておりました。書いてありました。それには拝山とあります。山を拝むというのです。もう私は長年の体験と、その事を頂いてから、もうほんとに人間の心が豊かになる。信心によって大きくなる。心が太らしてもろうたらもう絶対おかげが太るんです。必ずおかげが大きいんです。
皆が大きいおかげを願う。大きいおかげを頂きたいと思うならまず、自分の心が大きくならなければならんのです。ですから大きくしていくという事がこんなに楽しいことであるということが分かります。大きくなれば大きいおかげが現れてくるのですから。ね。そこでなら、大きくなることだけにいうならば専念すればよいということになるのです。それはなかなか信心はなくても心の大きい人があります。豊かな人もあります。または度胸のある人もあります。
けれども信心を抜きにしてからの大きい、豊かはたいした役にはたちません。いや、かえって困った結果になることすらございます。例えば、( )の事件でこだま、( )こだまさんという人もありません。こだまがこだまがとこう言う。けれども私ああいう事件がなかったらこだまさんなんか大変な私は勇者である。美人だと思い、と言われる人だと思います。もうほんとに大胆と言えば大胆。
けれども持って生まれたその大胆さが、日本国中の国民に迷惑をかけることになったり、悪く言われる結果になっているでしょうが。心が( )ばっかりですよ。だからね、私思うに信心によるところの大胆さ、信心によるところのいわゆる信心度胸が必要なんです。私なんか実に小さい心です。もう、それこそほんとに女の切り腐れんごたると私自分で思うんです。小さいことに気がついて気がついてしかたがない。ね。
気がつくことがいけないことじゃないけれども大きくなれないということがいけないのです。おかげを頂いて神様を信じる力がだんだん出来てまいりましたら、まあいうならばです、今まではです、どういうことが起こってまいりましても、ね、おかげを頂いて心が騒ぐこともなかならければ、驚かんですむほどしのおかげが頂けてまいりました。ね、それがどういうふうにして心が育ってきたか、豊かになってきたかということは、拝山のおかげを頂いてきたからであります。山というのは修行と言うことです。ね。それを修行と見てみると苦労と言うことです。
もうさんざん苦労もさせて頂きました。けれども、その苦労を拝んで受けるという生き方をです、ね、いうならば神様任せならば神様は氏子任せになるとおうせられるのだから。ね。神様を中心にした頂き方。神様がどうして私共のこういう難儀なことを、難儀な目にあわせなさるであろうかと。これほど信心するのにと例えば思う時代もありました。裸で引き上げて帰ってきたとたんに弟の戦死の公報がまいりました。
家に休んでおった娘婿が亡くなりました。一緒に引き上げて帰って来た家内の兄が亡くなりました。6ヶ月の間に兄弟の葬式3つも続けなければならない。当時、酒の配給をしておりましたその酒の配給も取り上げられてございませんでした。もうほんとに目も当てられないといったような中にあって、そのことがです、ね、私酒屋の免許を取り上げられる時にです、これは神様がもっといい、素晴らしい商売を与えて下さるんだなという心が一番わきました。これは本当です。
こりゃ困った。言うなら飯のだいがなくなったとは思いませんでした。というようにです、いうならば、やが一番心の豊かになる、心のよう素のというのはです、ね、いうなら難儀を拝む。今病気をしておるならばその病気を拝む。この病気のおかげで信心ができます。久留米の初代の石橋先生ではないけれど( ? )の中で、石橋さんがあんたのところの息子は馬鹿じゃなと言われなさる。
しかも、師匠である桂先生が( ? )の中でそれをおっしゃる。ね。普通のものなら顔色をじゃえなしょうけれどもです、さすがに石橋先生はです、親先生おかげで信心が出来ます。とおっしゃたです。(笑)確かにちょっと頭がおかしかったです。ご長男は。ね。それを( ? )の中でね、それを言われなさった時にです。親先生おかげで信心が出来ます。とおっしゃった。
ほんとに事実自分の子供がそういう状態であるということを神様に向けられる時に、私しゃどうしてこげな息子を持たなんじゃろかとはおっしゃておられなかった。神様、この息子のおかけで信心が出来ます、修行が出来ますと言うて日々朝晩そのことが神様にご祈念が出来ておられたからこそね、とっさに、石橋さんがあんたんげのところの息子は馬鹿じゃと言われた時にです、親先生おかげで信心が出来ますと答えられたということです。桂先生がもうそれこそ石橋さんと言うて一番に杯をさされたというお話が残っております。ね。
さっきからいろんな問題がでておりましたけれども信心がだんだん分からして頂くとです拝まにゃおられん、拝まにゃければ馬鹿らしか、それを向こうにでもおしやりよんならばこげなん馬鹿らしかことはないという。そこを合楽では成り行きを大切にするというだけではなくて、成り行きを尊ぶ。それは神様の御働きをそのまま尊ぶことになりますから、神様を尊ぶことになるのです。
だからまた神様が私を尊んで扱ってくださるという事になるのです。ね。皆さん、言うならば大きなおかげを頂く。それはね、お金が貯まりました。立派な家が出来ました。信心がなくても沢山お金が儲かっておる人はあります。なるほどこの世で幸せと言うかもしれません。けれども中には貯まれば貯まるほど難儀の人がございます。
もうどれほどしのお金をもっとるかわからんという人が、この頃もう70いくつになられて、家庭の( ? )頼みです。ね。養老院に行くというお届けがありました。もう、こんな悲しい事があるでしょうか。自分の子供がおり、娘がおる。息子がおるのにかかわらず、もう老い先短い自分が言うならば、それは金を出せばどんなまかないでもしてくれる人がありましょうけれども、それで人間の幸せといえるでしょうか。ね。
人間の幸せというものは金やら物じゃありません。もう、神様のおかげを頂かなければ、神様のお許しを頂かなければ人間の幸せはありません。しかも、人間の信心による幸せこそがあの世まで持って行けるというのですから、また、この世にも残しておけるというのですから。
どうでも信心による幸せを願わして頂く。神様の願いというものは、氏子が真実信心によって助かる。信心によって幸せになるということが、神の願いであります。今、合楽では、合楽教会大発展御神願御成就に相成りますようにという願いをさせて頂いております。合楽教会大発展という事は、ね、私が発展するという事ではありません。ね。合楽教会が大発展するという事は、ね、金光教が大発展する事であり、人間社会が大発展する事であり、と私は大きな幸せに繋っていくからでございます。
信心の真を現すという事は、私のおかげを頂いた事が、ね、それが次々に同じにおかげになって広がっていくという言うならば、手立てを工夫するという事が信心の真を現していくという事になるのです。ね。この世は、いや、人の世。人の世から神の世へ。闇の世から光の世へ。その私は光というものは、例えば難儀を拝まして頂く心こそ私は光だと思います。
難儀が起こってきた。心が真っ暗になった。( ? )。難儀が起こってきた。フアイトが湧いてきた。かえって元気が出てきた。おかげでまた信心が出来ますと神様にお礼が言えれる心こそ私は世の光になるものだと思います。そういう光がです、しかも今日、百人なら百名の方達の心の中に灯るとするならばです、例えそれが1しょっ光であっても、百人が集まれば百しょっ光ということになります。そこに横の繋がりが必要なんです。
「光臨」の世界、いわゆる光の和を私共が持たなければなりません。そしてそれが、世界の総氏子の上に広がっていくような願いを持たなければなりません。( ? )道もやはり第1歩からでございます。今日私そういう意味合いで今日の壮年大会が大変意味の深いものであったと思います。これが、この会合だけで終わらずに、お互いが何を、( ? )の言うならば光を頂いて帰って頂いて、ね、家庭の上にも、社会の上にも現して行けれるほどしのものにお育てを頂かして頂くという事を念願させて頂いております。
時間がございませんのでこれくらいでやめさせていただきますけれども、ほんとひとつ、本気で信心の稽古をさせて頂きますと。ああとても信心私どんにゃ出来ん。金もいるし、時間もかかるし、そげなことじゃありません。もう神様の信心に、あのね、2・3日前皆さんに申しましたんですけども、ね、信心にかかっておる。もし、家を売らんなら、屋敷を売らんならぐらいな神様ならば、もう神様の値打ちはないと私は思う。
氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになって下さる。そういう事実をです、そういう証しを立てていかなければ人も付いては来ません。私を見て下さい。ね。というようなおかげを頂いてまいりますなら、なるほど教祖様がおっしゃるように信心は見易いものじゃが氏子から難しゅうすることはありません。けれどもやはり、ある時点までは稽古であります。ね。
言うなら自動車の運転の免許を取るまではやはり勉強しなければいけません。後は楽です。後は楽しいです。しかもその楽で楽しいものが生涯続かしてもらうだけじゃなくてあの世までも繋がるというところに宗教の素晴らしさがあります。どうぞ。